完璧な人間はいません。
あるところに相手に完璧を求める人がいたとします。
その人はおそらくこう思っているかもしれません。
「なんでそんなこともしっかりできないの?」「そんな簡単なこともできないの?」または「だれがそんな間違いを起こすの?」
自分は塾関係の仕事を始めてから、教育系の動画や本で勉強していく中で相手に"完璧"を求めるのはナンセンスだと気づかされました。
自分もよく相手に完璧を求めていました。
しかし、勉強していく中で分かりました。
それは、"相手に完璧を求めているが、果たしてそういうことを言う自分は完璧なのか?"ということです。
よく塾業界で「生徒に怒ってはいけない」というルールみたいなものがあります。
日本の教育ではアメリカ式の褒める教育を取り入れて、「怒らないことが教育」のように誤って受けっとしまっていると、ある教育者の方は言います。
しかし、実際は相手を「否定しない」ということが重要であって「怒ってはいけない」ということではないんです。
ここで自分が言いたいことは、相手を「否定しない」と相手に「完璧を求めない」ということが同じポジションにある言葉だということです。
相手を否定する、相手の欠点や間違いを指摘するということは、同時に「私にはそのような欠点は一切ない、私はそれで間違えたことは一切ない」ということと、ほぼ等しいことだと自分は思っています。
なので、まとめると、相手に完璧を求めがちな人は常にこう思ったほうがいいと思います。
「果たして、自分は本当にそのことについて完璧だろうか」と。
自分は以前、否定しない習慣という本を読みました。
その本の一部を引用します。
「かもしれない」という可能性を残す思考法(P.80,81から引用)
(略)「お前、ちゃんと指示を聞いていたのかよ、と思うということは、俺の伝え方が悪かったのかもしれない。」「コイツの意見は間違っている、と思っている自分が間違っているかもしれない」
そんなふうに考えるクセをつけてみてはどうでしょうか?(略)
なぜなら相手を否定するということは、つまり「自分が正しい」と思っているわけで、それを疑ってみることが、「相手を否定しない」第一歩です。
「かもしれない」をつける練習(P.130,131から引用)
➡事実と「認識」を分ける習慣
何かにつけ、断定的に「こうだ」と決めつける人がいます。
そういうタイプの人には、あえて、こう言いたい。
「それ、本当に正しいですか?」
ワルシャワ生まれの哲学者アルフレッド・コージブスキーの有名な言葉に、「地図は現地ではない(The map is not the territory)」というものがあります。
これは、「いくら地図を見てその場所について分かった気になっても、現地に行ってみたらまるで違うかもしれない。地図を見て、現地を知った気になるな」という意味です。
つまり、見聞きしたものは「解釈」であって、事実情報とは違うということ。
どんなに人生経験が豊富な人でも、たかだかウン十年、自分が経験したことや見聞きしたことから判断しているだけにすぎない。ですから、その判断が絶対的に正しいとうことはありません。
それなのにまるで全知全能の神にでもなったかのように、何でもかんでも、「これはこうだ!自分が言うのだから間違いない!」と言い切るなんて、その時点でもう間違っているのかもしれません。
何が言いたいのかというと、「簡単にわかった気になってはいけない」ということ。
この記事で言いたいこと
主に引用したかった本のページをご紹介しました。
このように、私たちはなにかにつけてよく決めつけてしまいがちだと思います。
そして相手に完璧を求めがちではないでしょうか?
親子関係だったら、「勉強をもっとしないとだめ!」ではなくて、
「勉強をさせるには、まず親自身が勉強をしている姿を子どもに見せないといけないかもしれない。親が勉強をしていないのに、子どもにばかり勉強をするように言っていたら、子どもは不公平に感じるかもしれない。」と考えてはどうでしょうか?
自分が紹介した本や、今までの自分の人生で経験したことで言いたいことは、
"相手のことを決めつけたり、完璧を求める前に自分自身はどうなのかを考えると問題解決の兆しが見えてくる"ということです。
以上でございます。